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2011年11月10日

三線の歴史

~沖縄三線の歴史~
沖縄諸島を旅すると少なからず三線の音色を耳にします。島の情緒とあいまって、奥深い何かを感じさせる音色です。

沖縄の文化の中で、三線は特別な意味を持ちます。数百年前に沖縄へ伝わったといわれる楽器が、どのように沖縄の人の心に深く沁みこんでいったのでしょうか。その歴史を辿ることで、何か垣間見えるものがあるかも知れません。

*三線の伝来
弦楽器のはじまりは、三千年前のエジプトを起源とするといわれ、アジア方面へは中東を経てシルクロードを渡ったとされています。
       
唐の時代の中国で、共鳴させる胴に蛇皮を張り三本の弦を使った楽器「三弦(サンシェン)」があらわれます。弦を弾いて演奏するこの楽器が、三線の原型とされています。

琉球(かつての沖縄)に伝わった時期について、はっきりした記録は残っていませんが、次の2つの説があります。14世紀末に中国から沖縄本島の久米村へ帰化した人たちが持ち込んだという説と、このときより2世紀ほど前に南方貿易が盛んであったことから、貿易商人によって伝わったという説です。

日本へは、16世紀末に堺商人の手によって大阪に伝わったとされています。このとき、到着した地域に祭られていた神様が蛇であったため、蛇皮を使わず猫や犬の皮を用いるようになり、現在の三味線の形へ改良されていったといわれています。蛇皮(ニシキヘビの皮)が手に入りにくいというのも理由のひとつだったのでしょう。

*三弦から三線へ
さて、琉球へ辿り着いた「三弦」は、土着の音楽(古謡・祭祀歌謡)とすぐには結びつきませんでした。「おもろそうし」に記述の残る伝説の吟遊詩人「赤犬子(アカインコ)」の登場により、人々の間に浸透していったようです。「三弦(サンシェン)」は「三線(サンシン)」と変化し、長かった棹が短くなるなど楽器自体にも改良が加えられ、琉球の人々の体にフィットしたものへと姿を変えていきました。

今でこそ多くの人々に親しまれている三線ですが、その発達の流れは士族階級の宮廷音楽に用いられたものと、庶民の遊びに用いられたものとに分けられます。

*士族の三線
15世紀半ばにはじまる琉球王朝では、中国からの「冊封使(地位を認めてもらうための使節)」を歓待するために、祝宴の芸能や音楽が磨かれ、三線はその中心的な役割を担うようになります。王府では、音楽にたずさわる役職が設けられ、17世紀には三線専門の役職もできました。こうして三線は貴重な宮廷楽器として扱われるようになります。この宮廷音楽の流れを汲むものが、現在「琉球古典音楽」と言われているものです。これらの宮廷音楽の様式が、首里から派遣される役人によって各地へ広がりを見せることになり、同時に彼らの手によって中央へ持ち帰られた各地の古謡・民謡が、宮廷音楽へ取り入れられました。

当時、政府のバックアップを受け、腕を上げた三線職人がたくさん生まれました。その中でも名工の作った三線は、その音が首里城の開門を告げる鐘のように遠くまで響き渡ることから「開鐘(ケージョー)」といわれるようになります。さらに楽器としての実用的価値だけではなく、鑑賞の対象としても発達します。

*庶民の三線
一方、庶民の間では、各地域にあった歌と三線が少しずつ結びついていきます。祭祀など村の行事、男女が歌を交わして想いを伝えるような遊びの場で三線が用いられるようになります。しかし蛇皮を張った三線は大変高価で、簡単に手に入れることはできません。蛇皮の代わりに渋皮(紙に芭蕉の汁を含ませたもの)を何枚も貼り重ねた「渋皮三線」が使われていたようです。

中間層でもある地方豪農の間では、中央政府への憧れの気持ちが少なからずあり、蛇皮の三線を持つことがステイタスシンボルでもありました。彼らは土地や牛馬と交換してまで三線を手に入れました。しかし、自ら三線を弾くことはなく、村の祝いの席へ貸し出すことを主としていたようです。そのような三線は普段、床の間に飾って家宝として大切にされていました。個人で三線を所有する人はごくわずかでしたが、自分の三線を持つような人は純粋に三線の音色や音楽が好きな人だったようです。昼間から働かずに三線にうつつぬかすほど魅了された人もおり、労働の妨げになると、唄三線に興じることが嫌われる風潮もありました。

八重山には「ピラツカ」という言葉があります。ヘラの柄にもならない(農器具のヘラの柄には、曲がっていて他に使い道がない木を用いることから)=役に立たない者、怠け者、という意味です。三線ばかり弾いて遊んでいる人をピラツカと嘲ったのです。同時に歌の上手い人は「歌タノールィ(歌の味わい・うまさ)」があると言われ大いに評価されました。

もともと音楽的土壌が豊かだった沖縄では、三線の登場は衝撃的だったのでしょう。歌や三線への愛着が深まっていきます。これら庶民の間で広がった三線文化の流れが、現在親しまれている「民謡」へと発展していきます。

士族と庶民の二つの流れの中で、互いに影響を与えながら三線文化は発展していきました。そして、琉球王府の終焉とともにそれらは融合していき、その垣根がだんだんと低くなっていきます。

*三線と沖縄人のアイデンティティ
「大和の床の間には日本刀が飾られているが、沖縄の床の間には三線が飾られている」という山内盛彬の有名な言葉があります。これは楽器である三線が、沖縄の人々の間でいかに尊いものとして扱われていたかということを物語っています。移民として海外へ渡った沖縄出身者たちも、ずっと三線文化を大切にしてきました。戦中は家宝の三線を持って戦火の中を逃げたという話も数多くあります。沖縄の人が持つ財産のうち、最後まで手放さないのが三線とも言われています。

戦中の捕虜収容所で、人々は空き缶や廃材を使った「カンカラ三線」を生み出しました。それを奏でることによって悲しみを慰めたのです。また沖縄ならではの音階にのせて新しい歌も生まれました。復興する沖縄のエネルギーのひとつが三線であり「うた」だったのです。

*三線の現在
戦後日本の音楽教育は西洋音楽一辺倒となりました。そんな中でも深く人々の心の中に根付いていた沖縄の音楽は消えることがありませんでした。近年、郷土文化を見直す動きが出てくるにつれ、学校教育にも「三線」が取り入れられ、各学校に三線クラブや郷土芸能部が創設されました。沖縄の明日を担う若者たちは日々腕を磨き、部活動としてだけではなく地域行事で活躍したり、先輩方から教わったり後輩へ伝えたりと、生きた音楽体験をしています。

近年、三線が手頃な値段で入手できるほど生活が豊かになったことに加え、沖縄・三線ブームも手伝い、三線愛好者が増えています。毎年3月4日のサンシンの日には沖縄県内外でイベントが催されています。また、普段から各地で三線を使った演奏会やライブも多く行われています。ポップミュージックの世界でも三線を取り入れる県出身のアーティストは多く、その活躍は目覚しいものがあります。

実際には、沖縄の家庭の全てに三線があるわけではありません。沖縄の人のほとんどが三線を弾けるというわけではありません。しかし、多くの沖縄の人たちは、自らのアイデンティティの拠り所として三線を愛しているのです。


島に響く三線の音は、単なる楽器の音だとは言い切れない背景を持っています。三線に触れることで、沖縄の歴史を感じることもできるかもしれませんし、沖縄の人の心に触れることができるかもしれませんね。


と、まぁ~長くなりましたが、、、
当店のホームページにも同じ物が記載してあります赤ハイビスカス
他にも三線の扱い方や基本などが掲載してありますよ!
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